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歴史

2008年11月17日

WFB世界仏教徒会議@浅草 その2

■シンポジウム“Symposium”
11月15日 12時~ 第1部(1~4) 続きを読む

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2006年04月23日

本日は、御開山忌と護持会総会

4/23(日) 御開山忌:午後2時~
 
 ようこそお参り下さいました。本日は年に一度、毎年欠かすことなく厳粛に修行される当山のご開山忌でございます。脈脈とつづく歴史の重みとその意義を再認識し、ご開山様のご遺徳をお偲び申し上げながら、謹んで礼拝いたしましょう。

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「ご開山忌のしおり」リボン

「御開山忌」とは? 
 どこの家にも、必ずその家の最初の基礎を築いて下さった、ご先祖様があるように、お寺にもやはり最初のご先祖様があります。つまり、一番初めにそのお寺をお開きになったお坊様のことです。ただ、お寺の場合にはご先祖様とは言わず、「ご開山(ごかいさん)」と申し上げるのです。では何故ご先祖様と言わないで、ご開山とお呼びするのでしょう?

―「山号と寺号」―
 お寺には必ず「山号(さんごう)」と「寺号(じごう)」があります。例えば、道元禅師様が開かれた福井の曹洞宗大本山永平寺は、正式には「吉祥山永平寺(きちじょうざん えいへいじ)」と言います。つまり吉祥山が山号で、永平寺が寺号です。当山は、「(山号)大日山(寺号)随縁寺」であります。

―寺という名は―
 そもそも「お寺」は、中国の漢という時代(約1800年前)には、外国からの大切なお客様を泊める所であり、又お役所のことでもありました。それが、やがてインドから渡ってきたお坊様たちが、皆「鴻臚寺(こうろじ)」というお役所にばかり泊まったことから、いつのまにかお坊様の住む家を「寺」というようになったのだそうです。 又、「寺」を「てら」と読むのは、昔のインドの言葉だったパーリ語の「テーラ(長老)」、あるいは韓国語の「チョール(礼拝所)」、日本語の「照らす所」がなまって、「てら」になったというような、いろいろな説があるといわれています。
 尚、山号は、中国ではお寺を必ず静かな山の中に建てたので、その山の名を付けたことからはじまり、日本では鎌倉時代(約700年前)から、平地に建てたお寺でも、山号を付ける慣わしができたようであります。

―ご開山忌とは―
 そういうわけで、お寺には山号がつきものなので、それぞれのお寺を最初に開かれたご先祖様(お坊様)を「ご開山」とお呼びするのです。それで、そのご開山様のお亡くなりになったご命日を「開山忌」というのであります。一般の家でいうお年忌のことですね。ご開山様のお年忌、というわけです。

―ご恩に報いる―
 ご開山様が、み仏様のみ教えを伝え広めるためにお寺を開かれ、そして、代々のご住職方が受け継ぎ守り、発展に努力されてきたからこそ、今のお寺が存在するのであります。そのお寺に住むものとして、そうしたご苦労に感謝し、合わせてみ教えを広めるための決意を新たにあるために、大勢の方々をお招きしてお勤めする、大切な報恩行事(法要)が、「ご開山忌」であります。
 
以上 参照資料:「お寺の行事(親子で学ぶシリーズ2)」(曹洞宗宗務庁発行)

尊い檀信徒供養
 さて、当山では、このご開山忌には折角大勢のご寺院様方にご随喜いただきますので、特に一座を設け、随縁寺檀信徒並びに当日参拝の各家先祖代々諸精霊位の総供養をお勤めし、皆様と共にご先祖様方への報恩のお経をあげ、ご焼香いたすのであります。 

―ご開山のルーツ― 
 このお寺のご開山は、佛徳梅寒(ぶっとくばいかん)禅師 華蔵義曇(けぞうぎどん)大和尚です。
 
義曇(1375-1455) 
曹洞宗。号は華蔵。肥後(熊本県)に生まれる。10歳、海蔵寺の梅巖義東に師事して出家、左右に侍すること20年、その法を嗣ぐ。応永6年(1399)師の遷化にあい、諸方に歴遊し京都から遠江(静岡県)に行脚す。たまたま、引馬城主吉良氏が随縁寺を建立し、ここに迎えて住せしめたが、天竜川の洪水を蒙ったため、寺基を城地に移し寺号を普濟寺(ふさいじ)と改め再建した。義曇は、大慈寺開山寒巖義尹以下、師の梅巖までを勧請して、自らは第五世となる。康正元年4月1日示寂。世寿81。
       以上 〔洞上聯燈録四〕 新版 禅学大辞典(大修館書店)より

御尊像台座裏面の書:
 維時大正5年御開山御征忌二因テ御尊像ヲ彫刻シ奉ル 
  発願寄付者現住洞學大榮和尚
  現住大榮和尚者 越後國三嶋郡 塚山村之出生

―随縁寺ご開山である、華蔵義曇大和尚(以下、華蔵禅師と略します)について。

華蔵禅師は、順徳上皇(後鳥羽上皇の説あり)の第3皇子で道元禅師の高弟と名高い法皇禅師寒巖義尹大和尚の、五代目の法孫にあたる方です。この寒巖法皇禅師の委嘱(東海地方での教化)を果たさんとの志念を継いだ華蔵禅師は、故師のご霊骨を奉持して東海遊修の途に。54歳の1428年(正長元年)、遠江國寺嶋郷(現・浜松市寺島)に至り、幸い禅師に帰依した領主吉良左兵衛左殿(吉良義鎮公)の外護を受け、一事を建立し、ここに「本能山随縁寺」(現・浜松市広沢町廣澤山普濟寺の前進)の開創を見ました。これが、随縁寺のルーツであります。

しかし、この本能山随縁寺のあった寺島の地は低地で、たびたび近くの馬込川(天竜川)の氾濫による水害を被ったようであります。そのため、永享4年(1432)に富塚村沢の地(現在の広沢)に難を逃れ、寺の中心を移して山号寺号も「廣澤山普濟寺」と改められたのであります。本能山随縁寺開創4年後であります。こうして寺島の随縁寺は名ばかりの存在になっていったのであります。ところが有り難いご縁で、その後・・・

明治2年(1869)の廃仏毀釈で、隣の宿廬寺への遷座を余儀なくされた、村櫛古来の産土様「大日如来」尊像を「再び村櫛へ」との村民の篤い信心から発願と関係者の心血傾注の努力精進が実を結び、大願成就の時がきたのであります。即ち、上記の華蔵禅師が寺島に開山された古霊場「本能山随縁寺」を再興する形で、明治32年(1899)、霊験あらたかな「大日如来」をご本尊にお迎えして、当町上の山の西中腹に誕生したのが「大日山随縁寺」であります。

時の普濟寺住職、金毛全獅大和尚の勧めによって、官許を得て、随縁寺が村櫛に再興できたこと、そして廣澤山普濟寺の末寺に加えられたこと、この史実は「必ずや後生に申し伝えるべき大事なり」と考え、合掌致すものであります。


関連:
だいにちにょらい wikipedia

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管理人Nirvanaから音符

 いつもお参りいただきありがとうございます。本日は御開山忌のあと、護持会総会がありました。新しい役員様とご檀家さま方とともに、収支会計報告や今後のお寺の運営などについてお話し、会食の際には、恒例の美味しい甘酒が振る舞われました。

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 さて今回は、このように当山のルーツについて住職が初めてしおりにしたものを、そのままログにさせていただきましたが、より正確な史実に関しましては、現在2009年の秘仏御開帳行事に向けても改めて調査して頂いているところでございます。したがいまして、その後新しい情報が加えられることもございますことを、ご理解くださいますようお願い申し上げます。
 それにしましても、我々寺に住む者は本来旅人である、ということでしょうか。今の今まで様々なご縁を得て守られてきたお寺であること、そしてこれもまたご縁により住まわせて頂いていることに、改めて感謝いたします。
 


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2005年01月10日

ZUIEN-JI のBlog Openしました!

大日山随縁寺にて行われます2009年の秘仏公開に向けて、少しづつ情報をアップして参ります。なおこのサイトは、寺院情報、文化遺産、観光、その他リンク集、そして全国の「秘仏公開」の情報交換の場を兼ねております。秘仏公開はいずれも何年、あるいは何十年に一度というレアなイベントです。お見逃し無く!From Nirvana
※寺院関係者のみならず、歴史、宗教、考古学、建築、芸術および地誌専門の方からのアクセス・リンク大歓迎です☆

Welcome to our HP! We've just started making a presentation
about 〈Hibutsu Ko-kai〉, the open-door ceremony
of secret Buddhas which will be held in 2009 at Zuien-ji, Hamamatsu City.
In addition, you can enjoy and share the information of Traditional rites
in Japan. Remember, each ceremony is released only once a decade!
If you are interested, please leave your message. You can use other
languages here― English and French. My name is Nirvana.
Thank you.


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